つねぽんの日記(独り言)

アルコール依存症、乾癬、潰瘍性大腸炎発症者です。飲まなくなって8年が経ちました。日々の思うことを不定期で書いていきます。最近は大好きな坂本真綾さんのことを改めて振り返ったりしています。飲まない日々について8割くらい。

ありがとう~記憶にとどめるために~

2020年5月7日、18時11分。

私の母親が永眠をした。享年67歳。

 

ツイッター上では逐一状態を載せていたが、新型コロナウイルスに感染をし、約1か月の入院生活、ICUでの闘病のかいなく亡くなった。

 

悲しみが強く、やるせなくなる一方眠れない。

そのため今思い出せる母と自分を書き連ねたい。

すごく駄文で長いけれどお付き合いいただきたい。

 

思い返せばとても辛抱強く、またどこまでも子供のために自分を犠牲にする母だった。

 

趣味という趣味を持つことなく、音楽を好き好んで聴いているところも記憶がない。

また好きな俳優や画家等々の記憶が自分にはない。

読書は好きだった。サスペンス、ホラーと読んでいたが、晩年は白内障を治した影響で見にくくなったため好んで読まなくなっていたらしい。気づけなかった。

 

生きがいは多分子供たち、晩年は孫だったのだろう。

 

旅行は好きだったようだ。

結婚する前、昔は祖父に連れられて山登りをしていたような話も聞いたことがある。

しかし結婚後、父は家族旅行を数えるほどしか行わなかったため、結婚してからは我慢していたと思う。

60歳の時に姉と広島にいった。70歳では長崎に連れていきたかったと姉が言っていた。

迷惑をかけた中だが、大阪、福岡へと転勤した際に連れていけたことは親孝行になれたと思う。

 

小さい頃は体が弱かったと聞いている。入院するまで強い母の印象ばかりもっていたが、病弱だったという話を聞いた。

よく夏休みの期間は親戚の家に預けられていたと聞いている。新潟、名古屋の名前が挙がっている。

おそらく自分達3人を育てるために強くなっていったのだろう。

 

ダメな夫(ごめん、お父さん)のせいで、子供に苦労させたくないと、実の姉であるおばに頼んでおばの家が経営する工場で10年近く働いていた。

母の兄弟は姉2人、弟1人で姉2人は比較的裕福な仕事をしている人と結婚した。

母は何故か父と結婚した。お金も何も持っていない父と。

小学校の時、母が働くその工場に行くたびに金属片に囲まれたところで働いていたのを懐かしく思う。

自分の住む地域はどちらかというと裕福な家庭が多い地域だった。

そんな地域の小さなアパートで5人で暮らしていた。

そこでの生活が今の性格の歪みの原因ではあるのだけれど、母との思い出は悪いものは少ない。 

自分が中学の時に塾に通い、高校、大学と進めたのも母のおかげだ。

 

父のことをけなしてばかりだけど、母と結婚してくれてありがとう。

だから今の自分が生まれることができたのだから。

 

自分は大学を卒業し、約6年間は東京を離れていた。

その間にアルコールの問題でおかしくなっていく中でも引っ越しの手伝いに来てくれたり、時々連絡をくれていた。

今思い返すと誕生日には必ずメッセージをくれていた。

今年の誕生日にメッセージがもらえなかったこと、これからずっともらえないこと、悲しく思っている。

母の日、ここ数年はカーネーションを送り続けていた。

今年は入院も重なり送ることができないなと思っていた。

これからずっと母の日が近づくたびに今日のことを思い出すのだろうか。

 

体も心も壊して東京に戻った6年前、何一つ嫌な顔をせず、乾癬でぼろぼろになった体を労わってくれた。

アルコールにとらわれながら毎夜おかしくなっていく様をみて、

「大学の頃の輝いていたお前(名前)に戻ってくれよ」と初めて泣かせてしまった。

未だにあの時のことは鮮明に覚えている。

 

酔っている中で60歳の誕生日にネックレスをプレゼントした。

母親に送ることができた唯一の宝飾品。

つける機会もほとんどなくなっていただろうけど、喜んでくれていた。

 

この5年でお酒を飲まなくなり、旅行ができるようになり、仕事でも飛躍できるようになってきた。

そろそろプレゼントや何かで親孝行の一つでもできるかと思っていた矢先。

したい時にできないのが親孝行なのだと。

 

新型コロナウイルスでは死に目にも会えず、荼毘に付されてしまったお骨だけが届くという話をニュースで聞いていたため、もし母が亡くなれば会えないと思っていた。

しかし今日、母の最期、脈拍がなくなるその時まで見守ることができた。

死に顔が眠るような顔で今にも起きてくれると思うような顔をみることができた。

棺にも好きだったどら焼きとカフェオレを入れることができた。

 

そして、亡くなるぎりぎりまで、

 

ありがとう

ありがとう

感謝してます

と言うことができたこと。

 

世間からすれば悲劇的な亡くなり方かもしれないけれど、

お別れが出来たことに感謝をしている。

 

世間からは全く知られなかった67歳の生涯を閉じた1人の女性について、

自分はこれから生涯かけて誇りに思いたいし、これからの生き方で親孝行をしていきたいと思っている。